読み解く般若心経 パート6

Akaoni

先週の土曜日は、親戚のおばさんの一周忌があった。先月は、親父の49日を行い。今週の木曜日には、知り合いのお葬式に行ってきた。こちらは、神葬祭だったが、冗長でやたらと長く、気的にもいまいちで参った。この間は、八幡宮で姉弟が日本刀で殺し合うという事件が飽きたし、神や仏の世界も本質からかけ離れて混乱しているようだ。

 

49日の法要の意味をあるサイトでこんな風に解説していた。「人は,亡くなると49日の間あの世とこの世を彷徨い、その間に閻魔大王から次にどんな生を受けるのか裁きを受けるのだという。」そのために初七日か四十九日の間、お経をあげて供養をする必要があるのだという。そして、もし地獄、餓鬼、畜生という悪い道が決まってしまった場合に、再チャレンジのチャンスがあり、それが、百か日、一周忌、三回忌などの法要で、死者の為に追善供養することによって、死者の行く道を良くすることができるのだという。

 

般若心経を読んでいると、こうしたことは一切空であり方便だということがわかる。その一言が、これだ。「舎利子。是諸法空相」。インドの聖者もそうだと思うが、ある程度修行を積んだ弟子に対して言う言葉と、一般大衆に対して言う言葉とはちょっと違っている。子供に対して悪いことをすると鬼が来るぞ!と脅すように、大人に対しても悪事を働けば、地獄に落ちるぞと言って、脅して、まじめに仏道の修行に向かうように言ったのだと思う。しかし、本当の所は、究極の悟りの世界では、「諸法は、空想なのである。」

 

そこで「舎利子。是諸法空相から遠離一切顛倒夢想」の所まで否定の言葉が続くのである。そして、始めに否定しているのが十二因縁のようだ。十二因縁をwikipediaで調べると「無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死」とある。これは、まず最初に真理、実相の世界に対する無知から始まり、次に間違った行いが生じ、そこから間違った認識が生まれ、という具合に原因と結果の繰りかえしでこの世の苦悩が生まれているということらしい。このことに関しては、こちらのサイトが詳しく解説しているのでそちらをご覧ください。

ようやく般若心経を1800回唱え終わりました。今年中には2000回はいけるかと思います。こうしてその意味を理解してゆくことも必要ですが、一番大切なのは、実際に読み込むことで瞑想状態に入り、般若波羅蜜の世界を直接体験することなのだろうと思います。

死を恐れてはいないか

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昨日、夜お袋と話していた時に、60代のある知り合いの檀那さんが亡くなる時に死ぬのが怖いからと言ってずっとその奥さんの手を握っていたという話をしていた。その話には、ちょっと驚いた。なぜなら自分は、子供の頃かたずっと「死」について考えて、気功や瞑想を通して自分なりの答えを見つけ、今は「死」は恐れよりも、解放、喜びであるという認識があるからだ。

 

普通の人は、こんな風に「死」に対して恐れをいだいているものなのだろうか。もっとも自分の場合は、離婚して一人で暮らしているので、死に際になっても手を握ってくれる人もいない。頭痛がして寝込んでも、自分で針を打って七転八倒して汗をかき、上からも下からも出して治している。誰かをあてにすることはできない厳しさがある。

人類が地球の表面にへばりつくように生きているように、人間は、意識の大海の海面をただ漂うように生きている。その意識の海底に光り輝く故郷があるとすれば、死は決して悲しむべきものではない。その光の世界へ帰ることこそが唯一絶対の喜びとなる。この小さな肉体に中に止まることは、決して幸せな状態ではない。そう考えれば、「死」こそ喜びを持って迎えるべきものだと思えないだろうか。一時的な物を永続するものと錯覚して執着することにすべての苦しみ悩みの原因があるのだろう。

流れの悪い時

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先週ぐらいからPCの調子が悪く、動作が重くなった。トイレの流れも悪く、なんだか全体的に流れが停滞しているような状態だった。トイレの方は、昨日ホームセンターで通水カップを買ってきてカッポンカッポンと何度も試してみたが、うまくいかなかった。夜二階の人が帰り際に二階のトイレまで水の流れが悪いといわれたので、夕飯を食べてから二階のトイレに行って通水カップを試してみたがうなくいかなかった。これは、たぶん浄化槽に行くまでのパイプにつまりが出てしまったのだろうと思い、その晩はそのまま眠ることにした。

今朝、友人に連絡すると「お昼ごろなら行けるよ。」ということだったので、見に来てもらった。はじめのうちは、どうすればいいのか困っていた友人も、植木の下に隠れていた汚水枡の蓋を見つけて、明けてみると案の定そこが詰まって汚水で溢れていた。原因は、樹の根っこだった。パイプの中に根が張ってしまい、流れを詰まらせていたのだ。話を聞くと「どこでも同じような根っこがパイプに入って詰まらせていて、植木の根とは別ものだ」という。汚水に適応した植物があるのだろうか。

とにかく原因がわかったので、その根を取り除き、ホースで水を流して汚水枡とパイプをきれいに洗ったら、また気持ちよく水が流れ出した。PCの方もディスククリーンアップをしていらないファイルを削除したら、また軽快に動きだした。なんとなく流れが悪くなって気分も冴えなかったが、これでまたすっきりとして生活が送れそうだ。問題が起こると困るが、それを解決できると帰って自信と元気が湧いてくる。

読み解く般若心経 パート5

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即是即是」で物質のことを何で色って言うんだろうかと思いながら車を運転していて、そういえば、こうして見える物は皆色がついてるな。」とふと思った。人間は、ついつい色のついている物に目がいってしまい、その間にある空間というのはほとんど意識することができない。

では、どうすれば空間を意識することができるのだろうか。対象物に合った焦点をだんだん手前に持ってくればいい。そのためには目をだんだん閉じてきて半眼に近づける。目を半眼にすると意識の状態も変化する。大脳皮質の働きが抑えられ、瞑想状態へと入っていく。この時の見方が、「観」だ。すなわち、観自在とは、こうした意識の状態で、物事の本質を自在に見て行くという意味もあるのだろう。

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そういえば、宮本武蔵も「見の眼弱く、観の眼強く。」と言っている。それも相手の細かな動きに囚われること無く、その動きの中心を観て反撃するようにという教えだと思う。ちょっと前のテレビ番組で、アルゼンチンの女の子が、武蔵が残した二天一流という剣術を習いに日本に招待した番組があった。その子が、霊巌洞という「武蔵が「五輪の書」を書いたとされる洞窟を訪ねていたが、武蔵は、そこで座禅するだけでなく般若心経を唱えていたのかもしれない。

読み解く般若心経 パート4

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今日で般若心経の解説も4回目になります。今日は、「舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識・亦復如是。」について考えてみたいと思います。この部分はこちらのサイトに以下のような訳が載っています。

以下引用

「そして舎利子に向かい、次のように述べた。舎利子よ形あるものは実体がないことと同じことであり実体がないからこそ一時的な形あるものとして存在するものである。したがって、形あるものはそのままで実体なきものであり,実体がないことがそのまま形あるものとなっているのだ。残りの、心の四つの働きの場合も,まったく同じことなのである。」

引用終わり

舎利子とは、仏陀の弟子のシャーリープトラのことだそうで、ここでは彼に語りかける形で説かれています。この舎利子は、この後すぐにもう一度登場するので、読んでいるとその次に繋がってしまい、この部分を割愛していしまうことがよくあります。でも、色即是空、空即是色というのは、般若心経にとって重要な部分なので、うっかり読み飛ばす訳にはいきません。

「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」に関しては前回の五蘊の所で説明したように物質は、その原子、分子の振動数の変化でその状態を変えるので、物質は、何もないように見える状態になることもあるし、何もない所から物質が現れることもある。すなわち、物質は、一気に分解されて空中に分散されることもあるし、一気に物質化されることもある。ということだろうか。それは、水が気温が零下になれば、氷となり100度を越えれば水蒸気となって見えなくなるのと同じ事を言っているのだと思えばわかりやすい。

「受・想・行・識・亦復如是」は、このことは精神作用についても同じようなことが言えると言っている。つまり、人という形を持って存在する時は、いろいろな形で現れるが、肉体を失えば、表現できないので無いように見える。しかし、そうした精神作用は見えなくなっただけで無くなった訳ではないということだと思う。

 

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会話のない街は喉が渇く


民衆の敵というドラマ、けっこう面白いので、毎週録画してみている。今回の放送は、商店街でこども食堂をするという話。うちの実家は、酒屋ですぐ前が小学校だった。アイスやパンも売っていたので、たくさんの子供たちが買いにきたものだった。今思えば、店にいけば、お菓子やアイスが食べ放題だったのだから、随分恵まれた環境だったのかもしれない。ただ、そのせいで虫歯になって、歯医者さんとは縁が切れなくなってしまったのだが(笑)

ついこの間まで、お袋は、店をやっていた。親父の具合が悪くなりさすがに続けることができなくなって、ついに看板を下ろした。市内の量販店が酒の販売を始め、問屋で買うよりもそこで買った方が安くなり、しかたないので、そこで仕入れた物をお客さんに届けるなんてこともよくあったようだ。そんな訳で、酒のそのものが売れなくなると、洗濯物の取り次ぎをしていた。そんなお袋との会話っを楽しみにけっこういろいろな人が来てくれていた。

随分前の話になるが、大学に入って、東京にでた時に、一日中街を歩き回って誰とも会話することができずに無償に喉が渇いた記憶がある。今日の民衆の敵の話を見て、商店街がなくなることで会話が無くなってしまったということに改めて気がついた。会話と共に人と人の温かい心の交流も無くなってしまった。金儲けだけを考える企業は、人を減らし、ロボットや自動精算機に置き換えて行こうとしている。

でも、それでいいのだろうか。地方の若者が、誰にも相談することもなく、わざわざ都会に行って首をつって殺してもらうような世の中で、本当にいいのだろうか。もっと近所に自然に会話出来る場があれば、わざわざ殺してもらうために都会にでる必要があるのだろうか。もっと温かい会話のある街を作った方がいいのではないだろうか。スピーカーが話しても便利ではあろうけれども、温かいエネルギーの交流は生まれないのではないだろうか。

読み解く般若心経 パート3

Shiki

さて般若心経について再び見て行こう。今日は、「観自在菩薩 行人深般若派羅密多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄。」の中の五蘊という言葉について考えてみたい。五蘊の蘊という文字の意味は、積み集められた物。作られたものの総称とあった。蘊蓄のうんもこの字を使う。

 

仏教で言うところ「五蘊」とは、色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊の五つの集まりのことを言うという。
色蘊とは、元々肉体を意味したが、後に物質全体を意味するようになったとある。
受蘊とは、感覚とか知覚とかの感受作用のことを言い。
想蘊とは、「受」で受けたものを心の中でイメージすること、
行蘊とは、イメージを意志に移行させること
識蘊とは、判断することと言います。

色は物質を意味していると思っていたが、元は肉体を意味していたという。空に対するものとしては、一切の物質と解釈していたが、人間の構成要素としての色は肉体でよかったのだと思う。

五蘊の「うん」を「雲」として捉えるとわかりやすいかもしれない。色、受、想、行、識の五つの雲が空に浮かんでいるが、水蒸気が消えすっかり晴れ渡った空には、すでに雲はない。それと同じように、原子などの物質の基本の粒子の振動が一定の速度で振動している時は、物質や肉体としてあたかもそこに存在しているように見えるが、その振動数が上がり分解され解放されてしまうと物質や肉体としての姿を止めることが出来ずに消えて行く。従って、それは存在していると言えば、言えるが存在していないといえば、存在していないとも言える。

ところで、話は違うが、その昔、まだ自分がやっとはいはいができるようになった頃。母親が外で洗濯物を干しているとなんだかトイレの中から、赤ん坊の泣き声が聞こてきたのだという。その頃は今と違って、汲み取り式のぽったん便所だった。そこで慌てて二階に行って、赤ん坊を探したが見つからない。もしやと思い外に出てトイレの蓋を開けてみるとなんと二階に居たはずの赤ん坊がトイレのうんこの上に立って泣いていたのだという。「誰か助けて~!」と思わず叫んで助けを呼んで無事トイレの外へ引き上げることができたという。ちょうどその日は、十五夜の日で、「これで死んだら運尽きだ」と言われたと言う。今、まだ生きてこうして「蘊」について書いていられるのも運があったお陰ということができる。

人間で有る限り、この五つの「蘊」からは、離れることができない。そういえば、30年前に禅僧で太極拳の師匠からいただいた名前が、「五雲常道」だった。木、火、土、金、水の五つの働きを常の道として生きなさいということでいただいた名前だが、雲とは切っても切れない関係にあるらしい。

般若心経で言う所の雲は、やがて消えてしまうので、その形にこだわって囚われてはいけないということが言いたいのだと思う。そして、「照見五蘊皆空 度一切苦厄」にあるように、五蘊が空であるという本質を見抜いて、実感として体感した時に初めて、一切の苦しみと災いから解放されることができるのだろう。

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便秘解消は、BIG BENの浮沈が左右する

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豆腐大根ミックスサラダを中心に一年間食事をしてきたが、意外と食物繊維が足りないのか、ガスが溜まってしまっていた。そこで腸に溜まった宿便を掃除する意味も込めて再び玄米を食べ始めた。

玄米を食べ始めると腸が軽くなったようで気持ちがよくなった。今まで、トイレの水の中に沈んでいたBIG BENも軽く浮くようになった。重く沈むようなBEN は健康によもよくないのだろう。ガスの出も以前よりは改善している。玄米をあまり毎食食べ続けるとだんだん胃が疲れてくるので、そうしたらまたしばらく休めばいい。

ここの所、般若心経のことを続けて書いているが、こうした身近な話題も大切だ。そういえば、インドではトイレが家にないうちが多く、用を外で足しているが、政府が、それを是正するために外で用を足している人の写真を撮って公開して問題になっているという話がニュースサイトにのっていた。インドは聖者の国でたくさんの聖者がいる国だが、こうした下世話に見えることがちゃんとしているということも大切だ。

快食快便は、心の身体の健康の基本と言えるだろう。

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読み解く般若心経 パート2

「観自在の意味とは、視点の位置をずらせば、物事の見え方はまったく変わると言うことそしてそれを自由自在に行うことができるということ」だと思う。同じ物でも見る位置によって、その見え方は全然違ったものになる。そのことが、観自在という言葉の中に意味として込められている。

 

たとえば、人を2,3メートルの所から見るならば、その人が誰でどんな服装をしているかもよくわかる。しかし、上の動画のようにだんだん離れていって1キロも離れれば、その人の姿は見えなくなり、代わりに周りの自然の地形が現れる。さらに離れれば、地球しか見えなくなり、その地球もしだいに点でしか過ぎないものとなり、銀河が見え、銀河も宇宙の星の中へと溶けこんでわからなくなってしまう。

 

逆にどんどん近づいて行けば、その人の全体像は見えなくなり、鼻とか目とかある一部しか見えなくなり、さらに近づけば細胞しか見えなくなり、分子、原子とどんどん細かな粒子としてしか見えなくなってしまう。つまり、物事は見る位置によって、その見え方はぜんぜん違ってしまうということだ。

 

結局、習慣的思考、既成概念、固定観念などの固まった意識に囚われること無く、自由自在な視点に立ち物事の本質を捉えなさいということを言っているのだと思う。

読み解く般若心経

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般若心経を唱えるのにこの経本をもう30年以上使っている。さすがに所々破けてしまっているので、セロテープで補強している。最近、 般若心経を唱えていると「この意味なんだっけかな。」と思うことばしばしばあった。そこで再びその意味について調べてみた。読誦をしていて気がついたこと気功的視点からみた独自の解釈も加えて般若心経を読み解いてみたいと思う。

 観自在菩薩 行人深般若派羅密多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄。」という最初の言葉の中に般若心経のすべてが語られていると思う。その意味は、「 観自在菩薩が、深い瞑想状態になっている時に、この世の一切が空であると観照し、一切の苦しみ災いから解放された。」という意味だと思う。この文をこちらのサイトでは、「観音菩薩が、深遠な知恵を完成するための実践をされている時、人間の心身を構成している五つの要素がいずれも本質的なものではないと見極めて、すべての苦しみを取り除かれたのである。」と訳している。

 まず菩薩ってなんだったけかなと思い、wikipediaで調べてみると、サンスクリット語のBodhi sattvaの音写といい、悟りを求める衆生の意味だという。そういえば、菩提薩埵 は般若心経の中にも出てくる。

 次に気になるのが、般若派羅密多という言葉だ。この言葉は、般若心経の中に繰りかえし繰りかえし出てくるので、かなり重要な言葉だと思う。

 再びwikipediaで調べてみると、般若は、サンスクリット語でprajnaで智慧を意味し、波羅蜜多 は同じPāramitā で迷いの世界から悟りの世界へ至ること、および、そのために菩薩が行う修行のことと書いてある。至彼岸とも訳すと。この言葉もサンスクリット語の音写なので、それだけ言葉の響が意味があり一種の真言、マントラとしての意味があるというだろう。

 お経というのは、唱えることに最大の意味があるので、こうして知的に理解してゆくのは、面白いが心穏やかであるとも言えないので、今日はこのぐらいにしておきましょう。

 

 

«生と死を繋ぐ音の絆

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