オリンピック、塚の間の夢

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連日、オリンピックの熱戦が続いている。男子フィギュアの羽生選手の二連覇やスピードスケートの小平選手の金メダルなどすばらしい結果が日本中を感動を巻き起こした。羽生選手は、まるで漫画の世界から抜け出してきたような異次元のすべりで観客を魅了した。小平選手は、氷を対話すると言った深みのある独特の感性をライバルをも包み込むその優しさが、見ている人の目頭を熱くした。

スケートというのは、地道で大変な努力を必要とする競技なので、このようなことが起こるのだろうか。スキーやスノーボードは、またちょっと違うのかもしれない。空高くジャンプしたりするので、勇気や度胸を言ったもの、また風などの自然からの運も影響するのかもしれない。そうして、彼らの名前を見ると小野塚とか鬼塚とか「塚」のつく名前と童夢、歩夢とか「夢」のつく名前が多いことに気がついた。

もちろん彼らもオリンピックを目指して厳しい肉体トレーニングを積んでいるのだろうが、それ以上にその時の一瞬の運も左右しているのかもしれない。4年に一度の大舞台、塚の間の夢だからこそ、その華麗さに酔いしれるのだろう。同じようにすべての人の一生もまた、夢のように儚く一瞬のうちに過ぎ去ってゆくものなのだと思う。

年を取っても増え続けるのは、生命エネルギーである気力だけだ

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年を取ると白髪が増える。根元から白くなってきて、ちょうど指一本分の幅になったら、床屋さんに行く。目の中にも小さなごみのような物が出始めて、細かい字が読みにくくなってくる。歯もだんだんぐらぐらと揺れ始める。ただ、般若心経を読んだり、瞑想をすると身体の中心から力強い気力がわきあがってくる。そんなときには、「年を取っても増え続けるのは、生命エネルギーである気力だけだな」と実感する。

年とともにこの肉体そのものが,この世から消えようとしている。しかし、実感として気の流れを感じることができていれば、その消失もそれほど心配ではない。エネルギーは永遠に不滅だということを感じられるからだ。今は、オリンピック開催中で金メダルと取ったとか取れなかったとか騒いでいるが、たとえ金をとったとしても、それらは、時間の経過ともにやがて失われていってしまう。老化とともに、やがては、自分自身の記録にも勝てなくなっていってしまう。

それならば、永遠に変わらない物、老化していっても増え続ける気力を身に付けてゆくことにしたらどうだろうか。それは、脳の中心を活性化するということと同じだ。脳の中心にある間脳を鍛えることで、この世の一時的刹那的な快感から開放されて、永遠の喜びに出会いその中にとどまることができるなら、金メダルを越えたそれこそ最高のゴールと言えないだろうか。

すべてが、老化することで失われる現実の中で、増え続ける喜びを気の流れとともに体感してみてはいかがだろうか。

仮想通貨の波の中で漂流し始めた時代

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最近は、仮想通貨流出の話題が世間を騒がせている。それなりの大金をつぎ込んだのに暴落して大損してしまった若者もいるようだ。お隣の国では、ついに仮想通貨の投資に失敗して自殺した若者も出たという。

若者が仮想通貨に投資してしまうのは、この世に対する失望があるのかもしれない。最近のIT技術の発展は、よりによって一番大切な人間を置いてけぼりにしてしまっている。このままいけば、たくさんの職が失われると言われている。これでは、人類が自分で自分の首を絞め始めたとしか言いいようがない。しかも、地球全体としては、人口が爆発的に増えているのだからなおさらだ。

人間にとって大切なことは、この世を苦しみと悲しみで満たすのではなく、喜びと平安で満たすことではないだろうか。そのためには、真に在る物、真実の追究が欠かせない。仮想通貨のように絶えず変化する物に意識の焦点を合わせれば、その変化によって、一時的には喜ぶことはあっても、やがては暴落して苦しみに苛まれることになる。永遠に変わらない真実の追究こそが大切だということをまず子供たちに教えるべきではないかと思う。利潤や効率だけを追求している社会は、人間そのものを疎外し始めることになるのだから。

今朝車を運転してるときにこんな言葉が降りてきた。それは、「身体を流れる生命エネルギーを感じ、そのエネルギーで人や天とつながり、エネルギーに満たされていることを実感することが本当の喜びに繋がる」ということ。まずは、自分の中に流れる生命エネルギーを実感して自分の中にしっかりと錨を下ろすことが、このIT技術の中で漂流し始めた時代に一番必要なことなのではないだろうか。

イギリスで孤独担当大臣を新設

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今日の「ニュースで英会話」という番組を見ていたら、イギリスで孤独担当大臣を新設したというのをやっていた。それほど孤独感がひどい人が多いのだろう。これは、将来の日本の姿かもしれない。以前、神奈川に気功を教えに行っていた時、独身の女性が二人いた。その二人ともある程度年をとってきた時の寂寥感がひどいと言っていた。結婚せず子供もいない女性の場合は、特に孤独感がひどいようだ。

 

今の時代は、女性も職業を持って一人で生きるもそれはそれでいいような風潮があるが、実際に年をとった時につれあいも子供も孫もいないたった一人の生活というは、寂しさ以外なにもないのではないだろうか。だが、現実には一人の時間が長い人ほど結婚したいという気持ちがなくなってしまうらしい。あまり人を外見とか年収とかで判断しないでもっと気楽に人と付き合い、いっしょになったほうが幸せなれるような気がするが。

 

孤独感を感ぜずにすむもう一つの方法は、気の流れを意識し感じるようになって、天と繋がっているという感覚を絶えず持ち続けるということだ。個であることが寂しさの原因であるのだから、絶えずより大きな存在の一部として生きていれば、孤独であることはない。自分を小さな肉体ではなく、無限に広がるエネルギーの一部だと考えれば、孤立することも死におびえることも無い。孤独が問題になる現代とは、エゴが強力になり、人とも天とも繋がれなくなった時代と言えるだろう。

 

そういえば、イギリスは国としてもEUから離脱したし、植民地は分断統治したり、階級意識が強かったり、人や物事を分ける意識が強いのだろうか。皆で温泉に入ってほっくほっくという国民性とは違うのかもしれない。

般若心経12000回読誦

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ようやく般若心経を2000回唱え終わった。今年に入って第二週に風邪を引き、体調がいまいちで時間がかかってしまった。今年は、あまりに寒いので風邪をひいいてもなかなか回復しない人が多いいようだ。インフルエンザもはやっている。

一昨日ぐらいに車を運転していて、頭頂から眉間の奥のアジナチャクラに気が降りてきて天とつながる感じがした。「ああ、そうだこの感覚だったんだ。」と思い、風邪をひいてから、この天とつながっている感覚を忘れていたことを思い出した。天とのつながりが切れていると自分がなんともつまらない存在に思えるものだ。

風邪をひいいている時は、般若心経を唱えるにも、なんとなく力が入らない。こうして天とのつながりを取り戻した今は、身体の中心にエネルギーが満たされてくるのをすぐに感じることができる。他のスポーツと気功との違いとは、このエネルギーの感覚があるかないかの違いなのだと思う。

読み解く般若心経 パート9

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今日は、いよいよ最後の部分の解説をしてゆきたいと思います。「三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。般若心経」

 

この部分の訳を再びこちらのサイトから引用したいと思います。

 

以下引用

 

過去・現在・未来にわたる正しく目覚めたものたちは、知恵を完成することによっているので
この上なき悟りを得るのである。したがって次のように知るがよい。知恵の完成こそが
偉大な真言であり、悟りのための真言であり、この上なき真言であり、比較するものがない真言
なのである。これこそが、あらゆる苦しみを除き、真実そのものであって虚妄ではないのである、
と。そこで最後に、知恵の完成の真言を述べよう。すなわち次のような真言である。
往き往きて、彼岸に往き、完全に彼岸に到達した者こそ、悟りそのものである。めでたし。
知恵の完成についてのもっとも肝要なものを説ける経典。

以上引用終わり

この訳で意味がよくわかったでしょうか。ただ、真言であると
言っているので、わざわざ訳さずに音をそのまま載せたほうが
よかったのかもしれませんね。特に般若派羅蜜多と
阿耨多羅三藐三菩提の部分、そして、最後の羯諦羯諦、
波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶は、音に意味が
あるのでそのまま載せた方が分かりやすいと思いました。

読み解く般若心経 パート8

20171218

さて今日も般若心経の続きを見ていきましょう。「無苦・集・滅・道。無智、亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離・一切・顛倒夢想、究竟涅槃」までです。

 

苦集滅道、四諦と言って仏陀が最初の説法で説いたのだという。

 

苦諦とは、人間にとってこの世の一切が苦であるということの真相、現実のことだという。確かにこの世は苦しいことばかりが多い。神経というのは、痛みも快感も感じることができるが、喜びは一瞬で消えるが痛みはほんの短い間でも永遠に続くように思える。だから、この世の本質は苦だというのだろう。

 

集諦(じったい)とは、苦が様々な悪因を集めることで起こるいうことだという。苦集諦ともいい、苦には原因があるという真理のことだという。苦が表れる素となる煩悩のことだという。具体的には、貪欲、瞋恚(しんに)、愚痴などの心の穢れのことをいい、その根本である渇愛のことでもあるという。つまりは、人間であれば、誰しも持っている衝動的な欲求のことだろうか。食欲、性欲などの欲求は、この肉体を維持するために自然に備わっているのものなのでこれを乗り越えることは難しいと思う。最近の不倫報道といい、確かにここを踏み間違えて苦境に落ちいることも多いものだ。しょうがないといえば、しょうがないのだが。ついついやってしまうのが、人の常か。人間だものって所だろうか。

 

滅諦とは、苦の原因を滅するということ。無常の世を超え、執着を断つことが苦しみを滅した悟りの境地であるということだそうだ。確かに冷静に考えてみると自分の中にある執着の心があらゆる苦しみの原因になっていることがわかる。つまりあらゆる苦しみの原因は、自分自身の中にこそあったのだということがわかり愕然とする。

 

道諦とは、そうした苦しみを脱して悟りに至るための道、実践方法がちゃんとあるということらしい。それが仏道すなわち仏陀の体得した解脱への道であるという。ああよかったよかったこれでやっとこの世の苦しみから解放されることができるというものだ。どんなにすばらしい教えもその具体的な実践方法がなければ、そうなれないのだから。

この文章でも。究極の悟りの境地では、今書いた四諦のことも否定している。「無明もないのだから、智慧もなくそれを得ることもなく、すべてを得ることが無いので、悟りを求める修行者は、その境地にいるので心にわだかまりがなく、わだかまりがないので、恐れもなく、一切の倒錯や妄想から自由な、完全に解脱した自由な世界にいるのである。」と言っているのだろうか。

普段の我々の焦点距離は身近く、自分のとって得か損かという視点で物事を捉えていることが多い。しかし、般若心経の境地においては、その視点を上に引き上げて宇宙の中心、純粋な意識の中心から観た場合のことを言っているのだと思う。こうした視点で政治家が政治を行えば、世界中の人が幸せになれるのだと思うが、残念ながら、今の世界の指導者は、自己中心的で自分さえ自分の国さえよければ、世界はどうなってもいいという人ばかりだ。こんなことでは、明日の世界がどうなるかわからないので、日々般若心経を唱えて本当の世界にしっかりと意識の焦点を合わせて、どっちにどうころんでも大丈夫のように心がけていたいものだ。

 

読み解く般若心経 パート7

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昨日、いつも通る道の樹にカワラヒワが何羽か群れで止っていた。写真を撮ろうと頑張ったのだが、近くの枝に焦点が合ってしまいピンボケが多かった。しかし、この一枚だけがなんとかその姿をとどめていた。

 さて般若心経だが、今日は、「不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。」までをみていってみよう。この前には、諸法空相という言葉がある。

 映画のようにこの世のすべては、幻想なのだから、実相の世界では、「生ずることもなければ、滅びることもない。穢れるということもなければ、清まるということもない。増えるということもなければ、減るということもない。」と言っている。それは、ちょうどたとえば戦争映画の中で、どれほどたくさんの人が生まれなくなっても、あるいは宗教映画の中で汚されたり浄化されたりしても、そしてギャンブル映画で一攫千金を手に入れてたりなくしても、実際の自分の生活にはなんの影響もないのと似ている。

 だから「そのこの世というスクリーンの中には、肉体も感覚器官も想いも行為も認識も無いのと同じであり、当然、眼や耳や舌や身体も意識もなく、その元となる色や声や香りや味や触覚や法もないのと同じになる。さらにVRをつけた眼前の世界が実際に無いいし、同じように天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六道輪廻という意識で作った世界も存在しない。そして、すべてが無いのだから、無明ということもない。しかし、映画の世界の無明が尽きることも無い。あるいは、老いて死ぬということも無いし、映画の世界ではそれが尽きることも無い。」

この世を永遠に回転し続ける木馬と考えると、確かに木馬に乗っている時は、楽しいがそこには浮き沈みがある。苦と楽が交互に繰り返される。回転の周辺部にいれば、輪廻の輪の中から逃れることはできない。しかし、回転の中心に入れば、そこは静止した世界で、生死や苦楽の波から開放されて、安定した喜びの世界にとどまることができる。そのことを言っているように思う。

読み解く般若心経 パート6

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先週の土曜日は、親戚のおばさんの一周忌があった。先月は、親父の49日を行い。今週の木曜日には、知り合いのお葬式に行ってきた。こちらは、神葬祭だったが、冗長でやたらと長く、気的にもいまいちで参った。この間は、八幡宮で姉弟が日本刀で殺し合うという事件が飽きたし、神や仏の世界も本質からかけ離れて混乱しているようだ。

 

49日の法要の意味をあるサイトでこんな風に解説していた。「人は,亡くなると49日の間あの世とこの世を彷徨い、その間に閻魔大王から次にどんな生を受けるのか裁きを受けるのだという。」そのために初七日か四十九日の間、お経をあげて供養をする必要があるのだという。そして、もし地獄、餓鬼、畜生という悪い道が決まってしまった場合に、再チャレンジのチャンスがあり、それが、百か日、一周忌、三回忌などの法要で、死者の為に追善供養することによって、死者の行く道を良くすることができるのだという。

 

般若心経を読んでいると、こうしたことは一切空であり方便だということがわかる。その一言が、これだ。「舎利子。是諸法空相」。インドの聖者もそうだと思うが、ある程度修行を積んだ弟子に対して言う言葉と、一般大衆に対して言う言葉とはちょっと違っている。子供に対して悪いことをすると鬼が来るぞ!と脅すように、大人に対しても悪事を働けば、地獄に落ちるぞと言って、脅して、まじめに仏道の修行に向かうように言ったのだと思う。しかし、本当の所は、究極の悟りの世界では、「諸法は、空想なのである。」

 

そこで「舎利子。是諸法空相から遠離一切顛倒夢想」の所まで否定の言葉が続くのである。そして、始めに否定しているのが十二因縁のようだ。十二因縁をwikipediaで調べると「無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死」とある。これは、まず最初に真理、実相の世界に対する無知から始まり、次に間違った行いが生じ、そこから間違った認識が生まれ、という具合に原因と結果の繰りかえしでこの世の苦悩が生まれているということらしい。このことに関しては、こちらのサイトが詳しく解説しているのでそちらをご覧ください。

ようやく般若心経を1800回唱え終わりました。今年中には2000回はいけるかと思います。こうしてその意味を理解してゆくことも必要ですが、一番大切なのは、実際に読み込むことで瞑想状態に入り、般若波羅蜜の世界を直接体験することなのだろうと思います。

死を恐れてはいないか

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昨日、夜お袋と話していた時に、60代のある知り合いの檀那さんが亡くなる時に死ぬのが怖いからと言ってずっとその奥さんの手を握っていたという話をしていた。その話には、ちょっと驚いた。なぜなら自分は、子供の頃かたずっと「死」について考えて、気功や瞑想を通して自分なりの答えを見つけ、今は「死」は恐れよりも、解放、喜びであるという認識があるからだ。

 

普通の人は、こんな風に「死」に対して恐れをいだいているものなのだろうか。もっとも自分の場合は、離婚して一人で暮らしているので、死に際になっても手を握ってくれる人もいない。頭痛がして寝込んでも、自分で針を打って七転八倒して汗をかき、上からも下からも出して治している。誰かをあてにすることはできない厳しさがある。

人類が地球の表面にへばりつくように生きているように、人間は、意識の大海の海面をただ漂うように生きている。その意識の海底に光り輝く故郷があるとすれば、死は決して悲しむべきものではない。その光の世界へ帰ることこそが唯一絶対の喜びとなる。この小さな肉体に中に止まることは、決して幸せな状態ではない。そう考えれば、「死」こそ喜びを持って迎えるべきものだと思えないだろうか。一時的な物を永続するものと錯覚して執着することにすべての苦しみ悩みの原因があるのだろう。

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