ポケットの中のダイヤモンド

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 プンジャジの弟子のガンガジというアメリカ人の女性の「ポケットの中のダイヤモンド」という本をアマゾンで注文して買った。なかなか素直ですっと入ってくる文章ですばらしい。まだ、読み始めたばかりだが、プッジャジと出会ったところの記述がこれまたすばらしいので紹介したいと思います。

 以下にちょっと引用してみます。

「とうとう私は、助けが必要であるとことを認めました。私は師を必要としていたのです。私は、真実の師、本物も決定的な師が現れるよう祈りました。」

それから半年ほどしてインドでプンジャジに出会う。

 「パパジは私を普通以上の歓迎の仕方で迎えてくれました。目をキラキラさせながら私を迎え入れ、彼が私に与えられるものはなんでも持って行きなさい。と言ったのです。私の資格をチェックすることも、私のカルマをチェックすることも、長所を数え上げることもパパジはしませんでした。私が彼に会えて興奮していることを彼は私の目を見て取り、そしてこう言ったのです。「何が欲しいのか言ってごらん」

 私は答えました。「自由です。すべてのもつれや思い違いから自由になりたいのです。最終的で絶対の真実というものが本当にあるかどうか知りたいのです。何をしたらいいか教えてください。」

 パパジはまず、「正しい場所に来たね。」と言い、それから「何もしないでいなさい。あなたの問題のすべては、あなたが行動し続けることにある。すべての行為をストップしなさい。信じることも、探し求めることも、言い訳することも。すでに、そして常にここにあるものをあなた自身で見つけなさい。動いてはいけない。何かに向かって動くことも、何かから遠ざかることもしてはいけない。この瞬間に、じっとしていなさい」と言いました。・・・・中略・・・・・・

その瞬間私は、何事もいとわずに、恐怖の底にある思考を追うことも信じることも止め、初めはどうしょうもない絶望感のような深淵のように思われるところに落ちて行きました。すると、私が求めていた充足感と平和はここにあること、それはこれまでもずっとここにあったということ、そして、それがなくなる可能性はない、ということが明らかになったのです。何より驚いたことに、そのことを私はずっと知っていた、ということに気がついたのです。

 その「瞬間、これまで私が欲してきたものすべては、すでにここに、純粋で永遠なる存在の地盤として存在しているということに気づきました。私が「私」「私のもの」と呼んでいた苦しみのすべては、この輝く存在の中で起こっていたことでした!そして、何よりも重要なこと、つまり、私の本当の姿とはすなわちこの存在である、ということがわかったのです。そして、この存在はあらゆるところに、見えるもの、見えないものすべての中に在るのです

 このことに気づいた時、私という存在の物語から、物語の奥底にいつもあった存在の終わりのない深みへと、驚くべきファオーカスの転換が起こりました。それは何という平安、何という休息だったでしょう!それまでにも私は宇宙との一体感や崇高な至福感を感じたことはありましたが、これはまたくその性質が違っていました。それはいわば冷静な恍惚感であり。その瞬間、私は「私」という物語に縛られていない!ということに気づいたのです。」

 以上で引用を終わります。
冷静な恍惚感、それこそが我々の目指すものなのでしょう。彼女の言葉に端的にすべてが語られているように思います。焦点を移すこと、まさにそれこそが我々に求められていることのように思います。後は、物語からの解放でしょうか。私たちは、普段知らず知らずに作ってしまった自分自身の物語に縛られて身動きできなくなっている。その物語が複雑なのは過去から引きずってきたものであったりするからでしょうか。
 彼女の文章を読んでいると「悟り」というのは、ただ、自分が今まで作り続けてきた幻想の世界を手放し、ただ本来の世界に落ちて行けばいいと言っているようです。それはまた日本人には昔から慣れ親しんだ心身脱落という禅の世界そのもののような気もします。

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般若心経で心の傷を癒す

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実は般若心経一万回は5月の末ですでに達成していた。

精神的には、完全に復活しているし、今まで悩んでいたことが嘘のようだ。誰しも精神的に傷つくことも有るし落ち込むこともあるだろうが、病的に悪化させる前であれば、自力で回復できるということだろう。

 そのためには、それなりの方法が必要だ。般若心経を読むというのは、昔からたくさん人によって実行されてきたことだし、非常に身近で簡単なことだ。誰かや薬に依存することなく回復することができる。

 人が心が傷ついたと感じた時、それは目には見えないが、確かに何かが傷ついている。心臓を覆うエネルギー場が、実際に傷つくのだと思う。気功や般若心経を読むことが、その傷を癒してくれる。

 ところが、自分で治すことができますよと言ってもあまり評判がよくない。人は、何かに依存したがるものなのだろう。その依存が病気なのだろうが、それに気づく人は少ない。ならば、どうせ頼るなら一番、信頼のできるものに頼ればいいのではないかと思う。それは永遠の愛でありり命でもある。我々の真我であり、それを実現した人々だ。どんな名医も一時的に回復はさせてくれるだろうが、聖者のように永遠の命とその喜びを与えることはできないのだから。

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腰痛の予防の動き

 

 

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最近、腰が痛いという生徒さんがいました。この気功の動きも腰痛にはとてもいいです。
基本は、身体を前にたおして両手を足の方に膝をゆるめて、少しづつ腰を沈めながら、まるで井戸から水をくみ上げているように自然に背骨を持ち上げてくる動きにあります。首は力を抜いて、背骨に動きが伝わって立ち上がってきて最後にあごが上がり頭が動きます。全体に流れるような自然な動きで腰にほとんど負担がかかりません。どうしても上体を先も持ち上げようとすると腰に負担がかかり痛めやすくなります。繰り返し練習すれば、水が身体の中を流れるように自然になめらかにうごけるようになるでしょう。

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アヴァターもえくぼ

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 前にアマチの話を患者さんにしていた時に、個人崇拝はよくないといわれました。なんでも「あばたもえくぼ」に見ますからと。すかさずインドでは神の化身のことをアヴァターというんだそうですよと答えました。まさに「アヴァタ-もえくぼ」という話になってしまいました。人それぞれアマチに対する想いは違うと思います。日本では、あまりにも彼女の活動が一般に紹介されていないので、知らない人が多すぎて誤解をうけることも多いと思います。善い悪いは別にして客観的にその活動が報道されていると紹介もしやすいのですが。海外ではCNNが紹介していたり様々なメディアで報道されているようです。もっともアマチが生まれた村人のなかでさえ、まったく関心がない人もいるようなので、それもまた縁というものかもしれません。

 また、「究極の成功」の中から、スワミジの言葉を引用してみたいと思います。

「 サナータナ・ダルマ(ヒンヅー教)では、普通の人間が世に生まれることをジャンマ(誕生)と呼び、一般的にそれは、その人の初めての生ではないので、プールナ・ジャンマ(再生)とも呼ばれる。しかし、覚りを得た人間が人類救済のためにサンカルパ(決意)をたてて誕生した時には、その人のことをアヴァター(化身)と呼ぶ。多くの宗教では、一人だけの神の化身として受け入れるのが通常であるが、サナータナ・ダルマの場合は特異であり、たくさんの人をアヴァターとして認めている。また、その時代の状況や信者の信愛しだいで、神はいつでも、どこでも、どんな姿でも現れると、サナータナ・ダルマははっきりと断言している。

 サンスクリット語の「アヴァター」の由来はアヴァ・タラティであり、肉体を持って降りてくることを意味する。つまり、無形の神が、私たちを霊性の道に沿って導くために、名前と形の世界で人間の姿を取り、私たちのレベルに降りてくるということである。神がそうするのは、ダルマを復興しれ調和を維持し、世の中を守るためである。」

 神が降りてくるというとなんだかうさんくさいと感じる人もいるのではないだろうか。それは神を神話に出てくるような外部に存在する高貴なものと考えているからではないだろうか。でも、実際のところ神とはシン(芯)とも読むように私たちの中心にある純粋な意識のことである。私たち人類全体の意識を一つの円とたとえれば、絶えず再生を繰り返す私たちの意識は、「個」という殻に囚われたボトルのようなもので、絶えず変化を繰り返す海の波間に漂っている。それに対してアヴァターと呼ばれる意識は、円の中心の意識のことで、そこにはすでに「私」という個我の意識はなく人類全体の意識と同化している。アヴァターと言われる意識は、そこから私という想いと肉体に囚われて嘆き苦しむ私たちを救いに来てくれるていると捉えるとよくわかると思う。

 アンマのお弟子さんたちは、とても冷静で落ち着いていると思う。スワミジも決してアンマがアヴァターだと決めつけて押しつけている訳ではない。インドのアシュラムに行っても何かを強制的に押しつけらるといういことはない。私たちが自主的にエゴを捨てて無償の行為に参加するのを待ってくれている。スワミジたちも強制的い頭を下げることを強要したりしない。ごく普通の信者さんのように自然にアシュラムのなかを歩いている。

 彼はこの文章の最後にこんなことを言っている。

「アンマは、すべては神であることをいつも深く理解していること、そして、自分が覚りを得て生まれてきたことを、ほんの数回私たちに打ち明けている。また、過去30年間にアンマが毎日してきたことえを、世界中の歴史上をみても誰一人として行っておらず、アンマが成し遂げたこと達成した人もいないことを知っている。しかし、謙虚さから、アンマは決して自分がアヴァターであるとは言わない。その質問への答えは、私たち一人一人が自分で見つけなければならないだ。

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グルの眼差し

たとえそれが写真であってもラマナ・マハリシやアマチの目をみているとそこから温かなエネルギーがでていて気持ちよくなる。グルが弟子にイニシエイション(サンスクリット語でディクシャ)をする方法はたくさんあるようだ。以前書いたラマナ・マハリシの言葉では、中でも沈黙によるディクシャは最高のものだと書かれていたが、その他の方法によるものもすばらしいと思う。

 「究極の成功」という本から、またスワミジの言葉を引用してみよう。

 真の師によって特定のマントラや霊性の実践の伝授(イニシエイション)を受けることは、霊性の道を歩んでいく上でとても大きな進歩を促す。イニシエイションはすぐに結果として現れることもあるが、通常は長い年月をかけて確かな結果をもたらすことの方が多い。最も一般的であるが、それでもなお重要なイニシエイションの方法は、マントラの伝授であり、私たちの多くがアンマからすでにマントラ・;ディクシャを受けている。しかし、真のグルは、私たち側に受容力があれば、その他様々な方法でイニシエイションすることができ、ひと目見るだけでイニシエイションすることも可能である。それは目を通じてのイニシエイション、あるいはナヤナ・ディクシャと呼ばれる。

 こう書いた後に実際にそうした体験をした人の話をのせている。まさに目は口ほどにものを言いといったところか。その他にも触れることによってイニシエイションをするスパルシャ・ディクシャや足でふれることによるパーダ・ディクシャ、遠くにいる弟子がただ思うこだけで与えられるスマラナ・ディクシャのこことが具体的な例をともに書いてある。そして最後にこのように言っている。

 このような様々な種類のイニシエイションをサットグルが使うかどうかは、私たしたちの受容力と霊的成長の度合いによって決まる。受け手の意識のレベルが、イニシエイションを受けるに値するほど精妙でなければ、グルは決してそのように私たちに働きかけることはない。だからアンマは「私が授けたマントラを有効につかいなさい」と言うのである。実際私たちの心は精妙でがない。30分間瞑想しても実際に集中できるのはほんの数分かもしれない。数分間だけ集中するのもとても難しい。だから私たちは心の精妙さと集中力を得られるまでは、信愛の歌やマントラを唱えることに集中した方が良いのである。サットグルからマントラを伝授されれば、グルと個人的な関係を築かれる。マントラは私たちとグルを結びつける絆なのである。この絆あるいは結びつきは、私たちが真我の覚りという目的を達成するまで続くのである。
 アンマはたくさんの帰依者たちと前世からつながりが有ると言っている。アンマが何度も何度もこの地上に現れる唯一の目的は、私たちが人間としての命の目標を達成する手助けをするためである。・・・・・以下略

 

 聖者というのは、肉体を超えた普遍的なエネルギー的な存在であるので、私たちはただ思うだけで彼らにつながることができる。はじめは写真からエネルギーがでるのを感じるかもしれない。しかし、なれてくればたた思うだけで充分だ。マントラを唱えれば、ますますそのつながりは強くなる。

 

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受容性の大切さ

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 なかなか人にアマチのような聖者の紹介をするのは難しい。今日も患者さんが、治療を受けながらアマチのことを聞いてきたので、だいたいのことを説明し、後は直接会ってみればわかりますよと言っておいたが、どうやらアマチに洗脳されているのではないかと心配してくれているようだった。

 前回のスワミジの本のなかにこんな話がある。それは四人の友達の話だ。この四人はなにか議論があると必ず三人が一緒になって四人目に反論するのだという。

 ある日、会話の中で四人目の友達がとても的を射たことを言ったのであるが、いつものように三人は一緒になって四人目を馬鹿にし、それに反論した。そこで四人目は苛立ち悲しくなって神い大声で「神よ、どうぞこの友達に私が正しいということをお示しくだい」と祈り始めた。するとすぐに澄み切った青空に黒雲が立ちこめたので、彼は空を指さして「そらご覧よ。私が正しいという印を神がお示しになった。」と言った。しかし、三人はそれは単なる偶然だと言って彼を嘲り笑うので、彼はさらに苛立ち、三人を説得するためにもっと強い印を送ってくれるよに神に懇願した。するとすぐ空は暗くなり始め、稲光が走り、雷が鳴り響いた。そして彼は「これで疑いもなく神は私の味方だ」と喜んで叫んだが、三人はまだ納得がいかず、「それはなんでもないことだよ。黒雲が集まれば稲光や雷は当たり前さ」と言って肩をすくめた。

 四人目は必死になって「神よ、あなたが私に味方することを示す疑いもない印を彼らにどうか見せてください!」と叫んだ。すると空から「君たちは友達の言うことを聞きなさい。彼の言っていることは正しいのだ」と言う低い声が鳴り響いた。神お声を聞いた三人はそれでも「神が君の味方なのかい。それでも三対二で僕たちの勝ちさ」と言ったという。

 この話は、自分の考えがどんなにばかばかしく、実用性がないものであったとしてもそれに執拗に執着する人たちがいることを示している。そのような人たちはまったく受容性に欠け、心が閉じているので、アンマがいくら忠告しても自分が思ったとおりのことしか受け入れない。だからアンマは、眠っている人を起こすのは容易だが、眠ったふりをしている人を起こすのは難しいと言うのである。私たちはこの話に出てきた三人の友達のようにならないように努力し、アンマが私たちに教えようとすることに対していつも心を開いて、何でも受け入れる姿勢を持つようにしよう。何でも自分は知っていると思っていては、何も学ぶことはできないのだから。

 以上、結局、ほとんどスワミジの話を引用してしまいました。

私たちの本質は純粋な意識だと知っていても、実際にそれを体験するまでは、何も知らないのと同じだ。ただ謙虚になって聖者の言葉を受け入れることが大切だ。それは洗脳とは関係ない、狂信でも盲信でもない、水に溶け行く砂糖のよな静かで甘い喜びの体験だ。

 

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明け渡し

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 今日は、昨日とうってかわって涼しい一日となった。雨が降ってくれたおかげで庭のアジサイもほっとしているようだった。昨日は、再びパーキンソン病の患者さんが来てくれた。前回、痛みが終わるまでにとれなかったので、どうなることかと思ったが、意外とうまく治療ができて来た時よりも楽になったと喜んで帰ってくれた。単純な腰痛と違って思わぬ反応がでてしまうことがあるので、治療も真剣だ。特に脊髄そのものに異常があるか薬の副作用がある場合は、気を動かすことでかえって痛みが増してしまうことがある。そうした時は、じっと手をあてて思わず神に祈ってしまうこともある。すると不思議と痛みも治まってくれることがよくある。

 アマチのお弟子さんのスワミ・ラーマクリシュナンダ・プリという人の書いた「究極の成功」という本の中でやはり同じゆうな経験について語っている。

 それは彼が南米のコロンビアのボゴタでデーヴィ・プージャという儀式を行った時の経験だ。彼が予想していた以上にたくさんの人がやってきて、アマチ本人がきているのと勘違いしてたくさんの人がきているのかと思ってすっかりあわててしまった彼は、この人たちを満足させることができないのではないかと思い緊張しはじめてしまった。そしてアマチに対してこのように祈った「アンマ、こんなにたくさんの人たちをどうやって喜ばせることができるのですか。私だけの力では到底できそうもありません。アンマの恩寵だけがこの人たちを満足させれることができます。」と。

 そのように祈りながら予定どうりプログラムを始め、法話とバジャン(神をたたえる歌)とプージャを行ったところまるで自分を通じてだれか他の人が行っているような感じであっというまに終わってしまって、誰一人そこの会場から途中で去るものもなく、プログラムが終わると彼から霊的なエルギーを分けて欲しいとたくさんの人々に取り囲まれたという。

 そのことを後にアマチに聞くと、「自分を空っぽにすることができれば、アンマは完全にあなたの中に入り込むことができるの。あなたは自分が無力だと感じたからアンマにすべてを明け渡すことができたのね。それでアンマのエネルギーがあなたの中に流れ込むことができたのよ。」と答えたという。

 最近、気の力がアップしたと感じるのは、より多く自分を手放すことができるようになったからだろう。私という意識がなくなればなくなるほどたくさんのエネルギーが身体を通って流れるようになり、疲れもすくなくなるし治療の効果もあがってくる。
 気功を教えていても何も疑問をもたずに10年も気持ちよく習いに来てくれている生徒さんがいる。彼女はあまり気を感じることができなかったようだが、最近、ようやく感じることができるよになったと喜んでくれている。こういう人がきっと最後に本当の喜びを手にすることができるだと思う。素直に自分を真我あるいは大いなる命に明け渡す心が今一番人類に求められているのではないだろうか。

 

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脳幹部を鍛える

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 今週は、パーキンソン病の患者さんが、立て続けに来た。中脳黒緻密質ののドーパミン分泌細胞の変性が原因でるとされている。現代の社会では、大脳による知的な働きばかりが強調されていて、脳の中枢は「は虫類の脳」とかいわれて軽視されている。もっともそれも大脳のあるいはエゴの発想かもしれないが。だが、実際に人間の健康にとっては、脳幹部の方が健康や生命を維持する上で重要である。それを軽視するというのは、本末転倒である。

 気功ヨガを教える時は、この脳幹部にいかに刺激をいれて脳脊髄の働きを活発にするかということにポイントをおいている。具体的には、すきのポーズのような形であごが胸についてうなじが引き延ばされた時に脳幹部が下に引っ張られて自立神経やホルモンの中枢が刺激をうけて調整されてゆく。実際この部分に刺激が入るといわゆる快感物質が放出されるので大変気持ちがよく、雑念もきえてゆく。

 沈黙とは、大脳の働きが静まっている状態であり、それはラマナ・マハリシのよな聖者がいうように我々の永遠の喜びともつながっている。行動、思考、自律神経、ホルモン、そして、沈黙、真我の覚醒は、脳幹部の働きに関係している。そして、そこを刺激しコントロールすることが、我々の健康と幸福につながっているといえるだろう。

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気は一つという世界

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 ラナマ・マハリシの本を読んでいて感じるのは、気を送るのではなく、気は一つという世界だ。たとえていうなら、円周上の二つの点が、互いに気を送るのが、一般的な世界であり。
中心に向かって互いに進んでしだいに二つの点が一つに溶けて行くのが、沈黙のディークシャーで表現されている世界だ。つまり、お互いに相手に対する意識がなく、中心という一つの世界だけがある。すべての人がその中心の世界でつながっている。そこには、もう私という意識は存在しない。あるのはただ沈黙だけだ。前回の話はそんなことを語ってくれていたのだと思う。

 ある人が、「釈迦仏教はすでに終わっていると言っていた。」その人はどこかでそんな風に教えられてしまったのかと思って、「はあ、そうなんですか、ちっとも知りませんでした。」と言っておいたが、概念でとらえるとそういうとんちんかんなことも言ってしまうのだろう。真理を知るには、聖者からの直接的な体験が不可欠だ。そうでないと観念的にとらえてとんでもない間違いをおかしてしまう。釈迦の意識はアマチの意識でもあるし、ラマナ・マハリシの意識でもあるだろう。それは、時間や空間にとらわれない普遍的な意識のことだと思う。したがって、始まりもなければ、終わりもない、そうした永遠の意識のことだ。間違っても「釈迦仏教はすでにお釈迦だ。」なんて言わない方がいい。そんなことは、お釈迦様でも気がつくまい。」

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沈黙のディークシャー

ラマナ・マハリシは、沈黙によって弟子を導いたのだろうか。ある程度レベルがあがってくれば、気を感じたりすることで、聖者の発するエネルギーを感じることができるようになるので、たとえ聖者が沈黙していても、深い瞑想状態に引き込まれるということはあると思う。ただ、はじめのうちは、直接、エネルギーを注入していただく方がわかりやすいかもしれない。

このへんのことについてもラマナ・マハリシが「あるがまま」のなかで語っているので引用してみたと思う。

質問者:どうして沈黙がそれほど強力でありうるのでしょうか。
マハリシ真我を実現した聖者は霊的な波動を送り、それが多くの人々を彼のもとに引き寄せるのである。彼は洞窟に坐り、完全な沈黙を保っているかもしれない。我々は真理についての講話を聞き、たいした理解もできすにその場を立ち去るかもしれない。だが、真我を実現した賢者との接触をもてば、たとえ彼が何も話さなくとも、真理についてのより深い洞察を得ることだろう。賢者が公共の場に出て行く必要などまったくない。必要とあらば、彼は他の者たちを媒介者として使うこともできるのである。
 グルは実在からあふれる自己知識の光を啓示して、沈黙を与える者である。グルのまなざしが弟子の瞳に出会えば、いかなる言葉もその意味を失うだろう

 質問者:バガヴァーンはディークシャー(イニシエーション)を授けるのでしょうか。
マハリシ:マウナ(沈黙)は最高の、そして最強のディークシャーである。これはダクシナームールティによって実践されてきた。触れること、見ることなどによるイニシエーションは順位の低いものである。沈黙による伝授はすべての者のハートを変えてしまう。・・中略・・・・
 沈黙のディークシャーはもっとも完全なものである。それは、見ること、触れること、教えることを含んでいる。それはあらゆる方法で個人を浄化し、彼を実在の中に確立するだろう。

 
実はアマチにハグをしてもらうよりも近くで瞑想して、彼女のエネルギーを感じている方が気持ちがいいし、深くはいることができる。インドに行った時も、ハグはインドの人たちに譲って、大ホールに行って一人で瞑想していることの方が多かった。それでもホールのアマチの写真が飾ってある舞台の方から風が吹くように強大なエネルギーが吹き抜けてきて深い瞑想の世界へと連れ去っていってくれた。
 今でもラマナ・マハリシが生きていればぜひ一度会って彼沈黙のディークシャーをぜひ受けてみたいと思うが、彼は肉体から去っても永遠に存在しているはずなので、彼の意識に向かって沈黙の問いかけをしてみれば、きっと真我の世界へと連れていってくれるだろう。

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