瞑想とは、静止という死を体験してゆくこと
今朝、瞑想していたら、こんな言葉が浮かんできた。まだまだ、湿気が多くて瞑想していても汗ばんできてしまう。やはり、もう少し季節が進んで涼しくならないと気持ちよく座ることはできない。
他にもこんな言葉が浮かんだ。「生とは、一時的な波の状態。それに対して、命とは永遠に存在する海そのものである。」これと似たような言葉は、何度もこのブログにも書いたかもしれないし、いろいろな所に書かれている言葉かもしれない。どうしても人間は、表面的な動きに翻弄されて、自分の本質を見失ってしまう。
もう一つこんな言葉も浮かんだ。「大抵の人は、死の現実に向き合うことができずに、まるで永遠に生きることができるかのように生の幻影をいつまでも追い求めている。」 アメリカの大統領選の二人の候補は、あまりに高齢で驚いている。普通なら孫と遊ぶのを楽しみにしてつつましく生きているような年齢だ。それが、大統領になって、国や世界を動かそうとしていることに驚くを覚える。そろそろ人生の締めくくりに向けて準備した方が良いのでは無いかと思う。クリントンさんが、肺炎になって、崩れ落ちるように車に担ぎ込まれるシーンを動画で見たが、そういう年なんだから、それを素直に受け入れた方がいいのではないかと思う。もう外の世界よりも内面の世界を充実させる生き方の方が残された人生を充実して生きられるのではないかと思う。
内面に意識を向けて、内側から光とエネルギーがわき上がって昇天してゆくような生き方が、特に還暦を過ぎる頃から心がけると良いのではないだろうか。
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