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2016年10月

オリジナルであること

Hikari

「青い海」の気功は、いろいろな気功法を学ぶ中で、自分の内側から自然にわき上がってきた気功法だ。それは、作ろうとして作ったという感じではない。様々な気功とREKI WHALE SONGという音楽が自分の中で溶け合って自然に生まれてきた。

 

知り合いの治療家で、絶えずいろいろな治療法や太極拳、ヨガ、気功を勉強している人がいる。彼はよく本も読む。だが、おそらく一つもオリジナルのものがなく、まだ一冊も本を書いていない。端からみると山の麓をくるくる回っていろいろな入り口をさがしているだけに見える。一つの入り口を少し登るとあきて、また、次の入り口に向かい、また、それにあきると次の入り口に向かう。そんなこと延々と繰り返しているので、何かが深まることがなく、一行に本質に到達することができない。

 

同じようにいつも外の世界に何かを求め、地球の表面を何周もしてしまうほどの距離を移動している人たちも、多いのではないだろうか。そういう人は、水平に距離を移動するぶんたぶんいつも忙しくて余裕がないのだ。ただ、自分の内面に対してまったく深まっていかないので、いつも山の麓をぐるぐると回ってしまうだけで終わってしまう。

 

何かを学んだら一箇所にとどまり、何回も何回もそれを繰り返し、深く自分の内側からエネルギーがわき上がるまでそれを繰り返すべきだ。そうすれば、自ずから自分のエネルギーが命の内側からわき上がり、自然とオリジナルな方法も生まれてくるものだ。

水沢で不死鳥のような雲のお出迎え

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父親が入院してからしばらく行けなかった山に久し振りに行くことができた。まずは、御幸田上のそば畑で、ベイシアのパン屋さんで買ったサンドイッチを食べた後に、赤城と水沢の写真を撮った。

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ここ風景を見ながら、ランチを食べるのが、前からの楽しみになっている。忙しいとそのまま治療院に戻るのだが、今日は時間があったので、水沢まで車を走らせた。

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水沢のグランドの上から、いつものように子持ちと小野子山を撮った。渋川の総合公園は、クロスカントリーのコースを作っているようで工事のためのテープが貼られていた。ここは眺めのいいし、レースにもうってつけなのだろうか。

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最期に紅葉の状態を見に成人の森まで行った。ここもロープが張ってあって車で乗り付けることができないので、下の駐車場に止めて少し歩いて森まで行った。紅葉も多少色づき始めていたが、鮮やかな色に染まるには、まだ早かった。しかし、帰りしなに上空を見ると不死鳥のような雲に出会った。久し振りの水沢の気を受けて元気が復活してくるしるしを表してくれたのだろう。

抜けるような青空

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今朝、治療院の外の温度計を見たら6度ぐらいしかなかった。これではすっかり秋を通り越して冬の温度だ。今月のはじめは、まだ雨ばかりで湿気があって寝苦しい日が続いていたのに嘘のように季節が移ってしまった。もうファンヒーターの暖房が欠かせない。しかし、昨日は特に抜けるような青空が広がって気持ちのいい季節になった。

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久し振りに近くの山に車で行ってお昼を食べながら、赤城山の写真でも撮りたかったのだが、ちょうど患者さんが来たり、お袋を前橋の病院に送っていったりして時間が取れなかった。今日、親父が一応退院できるので、これからは山に行く時間もできるものと思う。昨日は、本当に雲一つない青空で山から写真を撮れなかったのは、もったいなかった。しかたないので、病院の帰り道、車窓から撮った一枚が上の写真だ。

 

病院に行き帰り、車の中の温度が高くなり窓を少し開けて走ったら、久し振りに頭痛が起きた。治療が終わった後に、自分で頭の腹部に針をうち治療した。それほどひどくは無かったが、意外と時間がかかり何回と治療を繰り返し、眠りについて目が覚めたら3時ぐらいだった。だいぶよくなったが、まだ少し右の頭に痛みが残っていた。しばらく起きて映画を観て、また針をうち眠りについた。気温の差が激しいくこのいきなりの寒さで風邪をひいている人も多いのではないだろうか。

 

皆さんも風邪などひかぬようお大事に!


キジバトの巣

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玄関のすぐ前の木の中にキジバトが巣を作って卵を抱いている。今頃雛がかえってえさがあるのかと心配だ。しかもほんの目の位置ぐらいの高さに作ってあるので、だれかが取ろうと思えば、すぐに卵を取れてしまうような位置だ。自分は鳥好きなので、キジバトに危害を加えようとは、夢にも思わないが、今年の春には、ツバメの他の鳥に巣を壊されてしまっているし、庭に作ったキジバトの巣も壊されてしまっていた。

なぜキジバトが、今頃巣を作ったのか疑問だが、以前、飛べないキジバトを一晩保護してやったことがあったので、もしかしたらそのキジバトかもしれない。鳩の恩返しみたいなものかとも思う。いずれにしてもこうして人の身近に巣を作ると言うことは、人間の方が他の動物よりも安全と判断しているのだろう。

光は瞬き生きている

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最近、夜駐車場などの屋外にある電灯を見るとその光がまるで生きているように瞬いているのが見える。同心円状に波うってうごめいている場合もあるし、光の槍が突き刺すように棒状に無数に伸びているように見える場合もある。いずれにしても以前とは光の見え方が変わってきた。

 

エネルギーの脈動こそが命だ。そして、生命エネルギーである私は、肉体が無くなってもエネルギー体として存在し、働き続ける。肉体という鎧を脱ぎ捨てた私は、エネルギー体としてよりダイナミックに脈動し、エネルギーを放射し続けるだろう。まるで太陽のように。

こう思えば、死は怖くない。むしろ、肉体という束縛から離れて無限の生命エネルギーに帰るものとして歓迎すべきものだ。映画やドラマの中で幼い子供に対して「亡くなった人はお星さんになったんだよ」などというシーンがあるが、確かに死ぬことによってはためく光のような存在になるのだとしたら、これほどすばらしいことはないだろう。

だからこれからはエネルギーの流れとしての自分に気がつき生きることがますます大切になってくるのだと思う。

写されたその姿ではなく、視点の中に私はいる

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久し振りに良い天気が続いている。空気が澄んだ空に太陽がまぶしい。やっと秋の長雨が終わって清らかな風が通る季節がやってきた。最近は、夏と冬しかないのかと思うほど季節が急に変わってしまう。気温も急に低くなって寒さを感じるようになったので、一昨日からファンヒーターを出して暖房し始めた。

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世の中には、何かあるごとに自分や家族の記念写真ばかりを撮っている人もいるだろう。そういう人にとっては、まるで写真というのは、自分の姿を映すためにあると思っているのかもしれない。うちの親なども、風景を撮っているのは見たことがない。そんなに自分の身体ばかり撮って亡くなったらどうするのかと思うのだが、そんなことには思いもよらないのかもしれない。しかし、実際に親が亡くなった人の話を聞くと、残された大量の写真やアルバムの処分に困ると言う。人間というものは、ほとんど誰も見ることのないかもしれない写真をどうしてそれほど熱心に撮って残そうとするのか不思議に思う。きっとそれは、自分を純粋な意識ではなく、単なる肉体として錯覚していることから起こるのだろう。

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自分がこうして風景の写真を撮るのも、それは「自分が写されたその姿の中にいるのではなく、この写真を撮った、その視点の中にいること」を知っているからだ。この写真のアングルの中にこそ自分の意識が表されている。まさにこれこそが私なのだ。

こうした自分の姿の写されていない写真なら、他の人が見ても喜んでくれるのではないだろうか。そして、この澄んだ空気の写真の中にこそ純粋な意識として私は生きている。



えもいわれぬ心地よさ

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ようやく夏の太平洋高気圧が立ち去って、大陸からのすがすがしい空気がやってきた。いつになく長い雨の9月を過ぎ、待ちに待った秋の空になった。この透明で涼やか空気感がたまらない。今まで雨でなかなか刈ることのできなかった庭の草を、今日ようやく刈ることができてすっきりした。

湿気の多い中で、「青い海」の気功をして動いていても、あまり気持ちよくないが、秋の涼し空気の中で動くと「えもいわれぬ心地よさ」がある。同じように治療で、気功指圧を患者さんにしていても、身体の中心から養老の滝ではないが、御神酒のように心地よく温かな気がわき上がってまるで酔ったような気分になる。これではアルコールはいらなくなるわけだ。ワインや焼酎、酒を飲まなくとも、指圧をしているだけで気持ちよくなってしまうのだから。

今ここにただ居るだけで、えもいわれぬ心地よさがあれば、何を欲しがったり、恐れたりする必要があるだろうか。ただ静かに今この時を味わえばいいのだから。

狐につままれたような話

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先週の土曜日、お袋を親父が入院している病院に送っていく途中で患者さんから電話があった。「3時半という約束で治療院の前にいるのだけれどどうしたんですかね。」と聞かれた。しかし、予約の電話を受けたという記憶がまったくないので驚いたて「いつ電話をもらいましたかね。」と聞くと「夕べの6時ぐらいですよ。」という答えが返ってきた。とりあえず「病院に着いたら、すぐに引き返します」ということで待ってもらうことにして事なきを得た。

その後、携帯や自宅の電話の履歴を調べたが、やはりその患者さんから電話がきた形跡はなかった。患者さんは、確かに電話で話したと言っているので、まるで狐につままれたような気分になった。もしかして、パラレルワールドにいる異次元の薬師堂に繋がってしまったのかと突飛な想像をしてみたり、あるいは、患者さんが電話番号を間違えて電話してしまって、相手にからかわれたのか。それがたまたま別の治療院だったのかといろいろと考えた。

入院中の親父はというと、この頃ちょっとボケが入って来たようだ。そのため病院に行くとベットの中で妄想にかられていろいろと突飛な話をするようになった。人間も最期が近づいてくると現実と幻想が溶け始めた意識の中にいるようになるのかもしれない。そして、そんな状態がこちらにも感染してしまったかような奇妙な出来事だった。

 

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