中心の中芯は、中神なのだ
最近なくなった赤塚不二夫の漫画のなかに「反対の反対は賛成なのだ」といった言葉があったと思う。シーソーの端によればよるほど、動きは大きくなる。それに対してその支点に近づくほど動きは小さく安定してくる。結局、バブルで大きくもうけた人は、それがはじけて大きく損をしただけだ。
中心のさらにその奥の奥にある中心を求め続けること。それが大切かなと最近は思う。瞑想においても「中心の中心は、輪~」というのを繰り返している。これは、けっこうシンプルでいいかもしれない。これのやり方は、「私は誰か」と問い続けることよりもわかりやすいように思う。
今回、金メダルを再び取った柔道の内柴と水泳の北島の二人を見ると、二人とも前回のオリンピックが終わった後に目標を喪失したのか、成績が落ち込んだ時期を経験している。つまり、彼らは目標を失い生活の中心を見失ってしまったのだ。しかし、再びある時点から、また、目標を見出し、今回、再び金メダルを取ると言う快挙を成し遂げた。柔らちゃんが、三連覇できなかったのは、彼女の中心はオリンピックではなく家庭のなかにあったのだろう。
いずれにしても、中心を外のものに求めても、すべては一時的でやがては時の流れとともに消えて行く。しかし、内面に向けて意識の中心の中心を求め続ければ、やがてはすべての存在の元である純粋な意識の中へととけ込むことができる。
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