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心と体

天の声 人の声

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自分がこのブログを書く場合、言葉がまるで天から降ってくるように内側からわき上がってくる場合もあるし、患者さんとの会話の中で刺激的な面白く役立つ言葉を頂く場合もある。

今日、往診に行った患者さんは、中学生時代に野球の試合をしていた時のこんな話をしてくれた。ある時、城南球場で試合をしている時にスタンドでキャンディーを売っているおじさんがいた。よくみると良く汲み取りに来てくれるおじさんだった。そこで「うんこ汲み来ているおじさんがキャンデー売りに来ているぜ」と皆ではやしたてたのだという。そうしたらそのおじさんが「うるさいおまえら、金ってのはな、きたなく稼いでもきれいに使えばいいんだ。」と言って怒鳴られたと言う。

その言葉が未だに忘れられずに、大勢の人を前に話をする機会があるとそのことを良く話したものだという。

ちょうど昨日浄化槽の掃除を友達にしてもらった所だ。汚いくさいと言っても、それらはみな元を正せば自分たちの身体からでてきたものだ。以前は、なぜそんなバイトを思ったが、今は、その働く姿ありがたさと美しさを感じるほどだ。下水が普及して汚い物を目にする機会が減ることは本当に良いことなのかかえって疑問に思う。

もし、昔から下水が普及していたら、汲み取りのおじさんが言ったような蘊蓄(うんちく)のある言葉は生まれなかったのだから。

本当の豊かさとは一体何なのか

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ある記事を読んでいたら、「インドネシアで地元の人たちが、笑いながら楽しそうにくらしているのに、自分はプール付き家に住みメイドもいる生活をしているのに毎日全然楽しくない。そこで本当の豊かさとは何かということを考えるようになった。」というような記事を読んだ。

「3丁目の夕日」という漫画があるが、高度成長期の前には同じように日本にも笑顔が溢れていた。そこには、まだ、人をほっとさせる時間と空間があった。それが経済的に豊かになるに従って、逆に失われ始めた。結果として、毎日、子供がいじめられて自殺したとか。学校が悪いと先生たちを責める親とか。嘘をついても平然と強行採決を繰り返す政府とか。介護疲れで無理心中する老人たちとか。そんな暗いニュースばかりになってしまった。

この間来た患者さんも急に葬式ができて、近くにできた1000円床屋に行ってきたんだが、ちっとも楽しくなかったと言っていた。自分も昔ながらの床屋さんに行っているが、値段はそれなりにするが時には2時間以上してもらうこともあるのだから、当然だと思う。それになにより安心して、終わった後もすっきり爽やかな気持ちになる。

また、長らくDVDを借りて映画やドラマを見ていたが、最近では、自動精算機に替わってしまって、店員の人とやりとりする必要がなくなってしまった店もある。そんな店には、やはり足が遠のき行きたいという気持ちもなくなってしまう。

今の時代は、何か大きな勘違いをしているように思う。その勘違いからますます本当の豊かさから遠ざかってしまっているのではないだろうか。

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正確な時間を求めすぎてかえって時を失う

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昨日来た患者さん、この一週間はいろいろな問題が一段落して、有意義な週末を過ごせたと言っていた。特に休みの日は、一気にやりたいことが吹き出すようにしてしまったそうだ。そんな中で面白い話をしていた。

GPSの時の組み立てキットをつくり、その正確な時間を調べていたら、夜遅くまで時間がかかり、かえって時間をロスしてしまったという話だ。時を求めすぎた故に時を失ってしまった言って笑っていた。

考えて見れば、こうした矛盾は、至る所にあるのかもしれない。長生きを求めるが故にかえって税金や保険料があっがって生きること自体が苦しく楽しくなくなってしまったり、役所の書類の正確さを求めるが故にかえって手間ばかりかかり人件費がかかりいつまでたっても赤字が続いてしまうとか。悟りを求めれば、求めるほど悟りから遠ざかってしまうとか。神の名を唱えれば唱えるほど、戦争やテロが増えて社会が不安定になって不幸になってしまうとか。

だからすべては、ほどほどがいいのかもしれない。日本語には、昔からこのことを表した素晴らしい言葉がある。それは、「ちょうど良い塩梅」だ。「もったいない」「おもてなし」の次は、この言葉を世界に広めたらどうだろうか。

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複雑さの中に生き、単純さの中へ帰る

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たまたま昼休みにテレビを見ていたら、「やすらぎの郷」というドラマを放送していた。ちょうど3人の老人がつりをしながら、会話しているシーンだった。その中の一人が友人の臨死体験の話をしていた。なんでも友人が交通事故に遭い病院に運ばれたが、事故に遭った時は、全然痛みがなく白い天使のようなものの両手に抱えられてお花畑に降ろされたそうで、実に気持ちがよかったんだそうだ。それが病院に運ばれて、医師のご臨終ですと言う言葉を聞いて霊安室に運ばれた後に奥さんが来て、半狂乱で身体を揺すられたら、どこかの詰まりがとれて生き返ってしまった。その時は、身体中が痛くて死ぬほど辛い思いをした。」というような話だった。

死んでしまうよりも、この世に生き返ったほうが、死ぬほど辛いという言葉に思わず笑ってしまった。

今はまだ、出来るだけ死を遠ざけて、いつまでも生きる方が善だと信じられているが、果たしてそうなのだろうかと思う。

しかも、世の中、ますます複雑化して、今までのように小売店に行って、お店の人と馬鹿話をしながら買い物をすると言った時代も終わりそうな勢いだ。車でさえ自動運転でかってに運転してくれる時代が来ようとしている。

でもそれって本当に必要なんだろうか。人の代わりに機械がすべてこなしてしまう時代は、ますます人とのつながりが希薄になってしまう。

ここに来ているある患者さんも、休みの日にそよ風に吹かれながら汗をかいて草刈りをしている時が、何も考えず自然と一体になっているようで実に幸せだと言っている。

臨死体験する人が言っているように最後はお花畑だ。世の中ますます複雑化してゆくが、単純化することの中にこそ、本当の幸せがあるのではないだろうか。

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意識は体験している


「THE LAST KINGDOM」というドラマを昨日は、一気見してしまった。9世紀のイギリスの大河ドラマのようなものだが、NHKの大河ドラマと違って、屋外ロケが多く実際に自分がその時代に生きているようで、つい引き込まれてしまって、気がつけば一気に見終えていた。

この時代、イギリスはデーン人に侵略されていたということを初めて知った。たぶん世界史の教科書では習ったのだろうが、まったく文字面だけの知識ですり抜けていったので、バイキングのような彼らに侵略された歴史があったということは気がつかなかった。

いつもドラマを見ているだけで熱くなって、汗をかいてしまうのを不思議におもっていた。昨日もドラマを見終わった後には着替えるほども汗をかいていただが、それは、単にドラマを見ているだけでなく、その世界に没入し、主人公や登場人物をいっしょになって、体験しているからだと気がついた。

同じように夢を見ていてもそうだし、現実の生活の中でもそうだ。ただ単に昼間起きて活動している時だけでなく、映画やドラマを見ている時でさえ、意識は体験し身体は反応しているということになる。

良いとか悪いとか善悪の判断は別にして、意識は、肉体を通して体験するためにこの世に生を受けたと言えるのだと思う。

影は人が作る

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元々、人は太陽のような光そのものだったのに、「私」という意識ができて分離して以来、そこに影ができるようになった。本来の「光」としての自分の存在に気づき、そこへ帰る努力をすることが生きる本当の目的だとは思うが、大抵の人は、自分の欲望に執着して我を肥大させて、その影をより暗く深刻なものにしてしまう。

宗教を語る者でさえ、2000年も前の概念に囚われてテロを繰りかえし、人々に凄惨な死をもたらす者さえいる。自分たちだけが特別だという想いが、太陽としての存在に深い影を投げかけている。

いつまでも一つの想いに囚われてなかなか前に進めずに暗く重い意識の中に閉じ込められていると感じたならば、もしかしてそれは、自分の想いや執着が作り出した影ではないかと疑ってみるといい。そして、本来の自分は、太陽のように光輝く存在だということを信じて、その影から意識の焦点をずらすように務めてみる。

繰りかえし、繰りかえし、脳の中心に意識の焦点を当てて、「元気、元気、大丈夫」と唱え始める。次に、心臓の中で唱え、そして、お腹の真ん中の丹田の辺りで唱える。そして、最後は、足の裏の湧泉のツボで唱える。すると、次第に振動が起こり、気が湧いて来て、身体が温まってくる。単純になることが、この複雑化して混迷してしまった世界から抜けるのに必要だ。

「影は人が作る」ようにあらゆる苦悩の原因は、自分という存在が作っているのだから。

 

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久々の房総半島

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日月と家族で房総半島に行ってきた。初めは館山までいくという話だったが、行ってみたら鴨川だった。海の見える旅館で温泉に入りながら、海を眺めることができた。以前は、館山の布良にある自然村に太極拳と座禅の修行に行っていたが、観光で房総を訪れるのは久し振りだった。

何かの勉強や修行、あるいは教えに遠くに行くのはいいが、観光で行くのは、あまり面白くない。一泊でも飽きてはやく家に帰りたくなった。やはり、日常の中で工夫していろいろ考えながら生きているのが面白いのだと思う。よくオーストラリアからきた客人が一月もうちに滞在したいたことがあったが、その感覚は信じられない。

自分を含めて日本人は、遊ぶことよりも仕事や家のことで工夫することの方が好きなのかもしれない。仕事と主体的に関われるような働き方に変えれば、労働時間を制限するとか休日を増やすという必要はないのかもしれない。

最も自分の場合は、自営業なので休日でも仕事が入ればするし、80過ぎても働くことになるでしょう。

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気功指圧は熱く癒やす

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昨日、患者さんに気功指圧をしていたら、「先生の手は熱いですね。服の上からでも熱いんだから、すごいですね。」と言われた。自分自身は、ちょっと頭痛がしてそれほど体調は良くなかったが、そんなことにはお構いなくしっかり気は流れ出ている。

気功をしているとだんだんと体の内側から気がわき出るようになるのだが、それはまるで自分が太陽になっていくようなものだ。自ら光りとなって周りを照らすという意味で、自灯明という言葉があるが、気功指圧を始めると体が熱くなって熱を出し始めて熱くなってくるので自太陽という言葉の方がふさわしいように思う。

気に対して敏感な人は、熱湯が流れるように感じることもあるし、そうでなくとも体が芯から温まり春の日の日差しに照らされているよう温かく気持ちがよくなってくる場合が多いと思う。体から温泉が湧き上がるように体の内側から自然に癒やされてくるのが気功指圧だ。

これは、体験して見なければ決してわからないので、ぜひ、大勢の人に体感して欲しいものだと思う。

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除草剤を使わないために除草シートを敷き始める

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毎年、この季節になると草との戦いが始まる。特に雨が降り続く梅雨になるとあっという間に伸びてしまう。世の中、一般的には除草剤をまいてしまうのだろうが、自然と体の健康のために使いたくないので、今年は庭に除草シートを敷いてみることにした。

まだ、敷き始めたばかりなので、どうなるかはわからないが、これで草刈りをする機会が減ればありがたい。蚊を退治するにも蚊取り線香は、焚いていると頭が痛くなってしまうので使っていない。その変わり蚊帳とつって寝ている。こうすれば、かの羽音に悩まされずに朝までぐっすり眠ることができる。

家に体にも薬はあまり使いたくないもので、自然を意識して自然治癒力を高めることが大切なのだと思う。

二つのフィクション

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この世には二つのフィクションが存在する。その一つはいわゆる虚構としてのフィクションであり、もう一つは現実という名のフィクションである。現実を一つのフィクションとして生きることが出来るとき、初めてこの世の苦しみから解放されることができる。

夢の中で体験することと現実の中で体験することに違いがあるのだろうかと以前感じたことがある。どちらも意識が体験していることで、同じと言えば同じと言えるかもしれない。ただ、夢をそこから覚めようと思えば、いつでも覚めてその関係性の中から抜け出すことができる。

現実もフィクションであり、夢の世界と大差ないということを体感したなら、この現実と言われる世界から抜け出すのも、あまり難しことでも深刻なことでもないのかもしれない。今は、まだ、自殺する人たちは刹那的で周りにいる人たちに混乱と悲しみを与えることから、自ら肉体から離れるというのはマイナスなことと捉えられているが、自然にこの体から抜けでることができて、周りの人に混乱も悲しみも残さないような方法で行うことができれば、それはそれでいいことではないだろうか。

肉体を離れても継続する意識と生命場の存在を明らかにすることが、すべてのこの世の混乱を救う唯一の方法なのではないだろうか。

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