心と体

読み解く般若心経 パート4

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今日で般若心経の解説も4回目になります。今日は、「舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識・亦復如是。」について考えてみたいと思います。この部分はこちらのサイトに以下のような訳が載っています。

以下引用

「そして舎利子に向かい、次のように述べた。舎利子よ形あるものは実体がないことと同じことであり実体がないからこそ一時的な形あるものとして存在するものである。したがって、形あるものはそのままで実体なきものであり,実体がないことがそのまま形あるものとなっているのだ。残りの、心の四つの働きの場合も,まったく同じことなのである。」

引用終わり

舎利子とは、仏陀の弟子のシャーリープトラのことだそうで、ここでは彼に語りかける形で説かれています。この舎利子は、この後すぐにもう一度登場するので、読んでいるとその次に繋がってしまい、この部分を割愛していしまうことがよくあります。でも、色即是空、空即是色というのは、般若心経にとって重要な部分なので、うっかり読み飛ばす訳にはいきません。

「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」に関しては前回の五蘊の所で説明したように物質は、その原子、分子の振動数の変化でその状態を変えるので、物質は、何もないように見える状態になることもあるし、何もない所から物質が現れることもある。すなわち、物質は、一気に分解されて空中に分散されることもあるし、一気に物質されることもある。ということだろうか。それは、水が気温が零下になれば、氷となり100度を越えれば水蒸気となって見えなくなるのと同じ事を言っているのだと思えばわかりやすい。

「受・想・行・識・亦復如是」は、このことは精神作用についても同じようなことが言えると言っている。つまり、人という形を持って存在する時は、いろいろな形で現れるが、肉体を失えば、表現できないので無いように見える。しかし、そうした精神作用は見えなくなっただけで無くなった訳ではないということだと思う。

 

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会話のない街は喉が渇く


民衆の敵というドラマ、けっこう面白いので、毎週録画してみている。今回の放送は、商店街でこども食堂をするという話。うちの実家は、酒屋ですぐ前が小学校だった。アイスやパンも売っていたので、たくさんの子供たちが買いにきたものだった。今思えば、店にいけば、お菓子やアイスが食べ放題だったのだから、随分恵まれた環境だったのかもしれない。ただ、そのせいで虫歯になって、歯医者さんとは縁が切れなくなってしまったのだが(笑)

ついこの間まで、お袋は、店をやっていた。親父の具合が悪くなりさすがに続けることができなくなって、ついに看板を下ろした。市内の量販店が酒の販売を始め、問屋で買うよりもそこで買った方が安くなり、しかたないので、そこで仕入れた物をお客さんに届けるなんてこともよくあったようだ。そんな訳で、酒のそのものが売れなくなると、洗濯物の取り次ぎをしていた。そんなお袋との会話っを楽しみにけっこういろいろな人が来てくれていた。

随分前の話になるが、大学に入って、東京にでた時に、一日中街を歩き回って誰とも会話することができずに無償に喉が渇いた記憶がある。今日の民衆の敵の話を見て、商店街がなくなることで会話が無くなってしまったということに改めて気がついた。会話と共に人と人の温かい心の交流も無くなってしまった。金儲けだけを考える企業は、人を減らし、ロボットや自動精算機に置き換えて行こうとしている。

でも、それでいいのだろうか。地方の若者が、誰にも相談することもなく、わざわざ都会に行って首をつって殺してもらうような世の中で、本当にいいのだろうか。もっと近所に自然に会話出来る場があれば、わざわざ殺してもらうために都会にでる必要があるのだろうか。もっと温かい会話のある街を作った方がいいのではないだろうか。スピーカーが話しても便利ではあろうけれども、温かいエネルギーの交流は生まれないのではないだろうか。

読み解く般若心経 パート3

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さて般若心経について再び見て行こう。今日は、「観自在菩薩 行人深般若派羅密多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄。」の中の五蘊という言葉について考えてみたい。五蘊の蘊という文字の意味は、積み集められた物。作られたものの総称とあった。蘊蓄のうんもこの字を使う。

 

仏教で言うところ「五蘊」とは、色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊の五つの集まりのことを言うという。
色蘊とは、元々肉体を意味したが、後に物質全体を意味するようになったとある。
受蘊とは、感覚とか知覚とかの感受作用のことを言い。
想蘊とは、「受」で受けたものを心の中でイメージすること、
行蘊とは、イメージを意志に移行させること
識蘊とは、判断することと言います。

色は物質を意味していると思っていたが、元は肉体を意味していたという。空に対するものとしては、一切の物質と解釈していたが、人間の構成要素としての色は肉体でよかったのだと思う。

五蘊の「うん」を「雲」として捉えるとわかりやすいかもしれない。色、受、想、行、識の五つの雲が空に浮かんでいるが、水蒸気が消えすっかり晴れ渡った空には、すでに雲はない。それと同じように、原子などの物質の基本の粒子の振動が一定の速度で振動している時は、物質や肉体としてあたかもそこに存在しているように見えるが、その振動数が上がり分解され解放されてしまうと物質や肉体としての姿を止めることが出来ずに消えて行く。従って、それは存在していると言えば、言えるが存在していないといえば、存在していないとも言える。

ところで、話は違うが、その昔、まだ自分がやっとはいはいができるようになった頃。母親が外で洗濯物を干しているとなんだかトイレの中から、赤ん坊の泣き声が聞こてきたのだという。その頃は今と違って、汲み取り式のぽったん便所だった。そこで慌てて二階に行って、赤ん坊を探したが見つからない。もしやと思い外に出てトイレの蓋を開けてみるとなんと二階に居たはずの赤ん坊がトイレのうんこの上に立って泣いていたのだという。「誰か助けて~!」と思わず叫んで助けを呼んで無事トイレの外へ引き上げることができたという。ちょうどその日は、十五夜の日で、「これで死んだら運尽きだ」と言われたと言う。今、まだ生きてこうして「蘊」について書いていられるのも運があったお陰ということができる。

人間で有る限り、この五つの「蘊」からは、離れることができない。そういえば、30年前に禅僧で太極拳の師匠からいただいた名前が、「五雲常道」だった。木、火、土、金、水の五つの働きを常の道として生きなさいということでいただいた名前だが、雲とは切っても切れない関係にあるらしい。

般若心経で言う所の雲は、やがて消えてしまうので、その形にこだわって囚われてはいけないということが言いたいのだと思う。そして、「照見五蘊皆空 度一切苦厄」にあるように、五蘊が空であるという本質を見抜いて、実感として体感した時に初めて、一切の苦しみと災いから解放されることができるのだろう。

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便秘解消は、BIG BENの浮沈が左右する

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豆腐大根ミックスサラダを中心に一年間食事をしてきたが、意外と食物繊維が足りないのか、ガスが溜まってしまっていた。そこで腸に溜まった宿便を掃除する意味も込めて再び玄米を食べ始めた。

玄米を食べ始めると腸が軽くなったようで気持ちがよくなった。今まで、トイレの水の中に沈んでいたBIG BENも軽く浮くようになった。重く沈むようなBEN は健康によもよくないのだろう。ガスの出も以前よりは改善している。玄米をあまり毎食食べ続けるとだんだん胃が疲れてくるので、そうしたらまたしばらく休めばいい。

ここの所、般若心経のことを続けて書いているが、こうした身近な話題も大切だ。そういえば、インドではトイレが家にないうちが多く、用を外で足しているが、政府が、それを是正するために外で用を足している人の写真を撮って公開して問題になっているという話がニュースサイトにのっていた。インドは聖者の国でたくさんの聖者がいる国だが、こうした下世話に見えることがちゃんとしているということも大切だ。

快食快便は、心の身体の健康の基本と言えるだろう。

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読み解く般若心経 パート2

「観自在の意味とは、視点の位置をずらせば、物事の見え方はまったく変わると言うことそしてそれを自由自在に行うことができるということ」だと思う。同じ物でも見る位置によって、その見え方は全然違ったものになる。そのことが、観自在という言葉の中に意味として込められている。

 

たとえば、人を2,3メートルの所から見るならば、その人が誰でどんな服装をしているかもよくわかる。しかし、上の動画のようにだんだん離れていって1キロも離れれば、その人の姿は見えなくなり、代わりに周りの自然の地形が現れる。さらに離れれば、地球しか見えなくなり、その地球もしだいに点でしか過ぎないものとなり、銀河が見え、銀河も宇宙の星の中へと溶けこんでわからなくなってしまう。

 

逆にどんどん近づいて行けば、その人の全体像は見えなくなり、鼻とか目とかある一部しか見えなくなり、さらに近づけば細胞しか見えなくなり、分子、原子とどんどん細かな粒子としてしか見えなくなってしまう。つまり、物事は見る位置によって、その見え方はぜんぜん違ってしまうということだ。

 

結局、習慣的思考、既成概念、固定観念などの固まった意識に囚われること無く、自由自在な視点に立ち物事の本質を捉えなさいということを言っているのだと思う。

読み解く般若心経

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般若心経を唱えるのにこの経本をもう30年以上使っている。さすがに所々破けてしまっているので、セロテープで補強している。最近、 般若心経を唱えていると「この意味なんだっけかな。」と思うことばしばしばあった。そこで再びその意味について調べてみた。読誦をしていて気がついたこと気功的視点からみた独自の解釈も加えて般若心経を読み解いてみたいと思う。

 観自在菩薩 行人深般若派羅密多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄。」という最初の言葉の中に般若心経のすべてが語られていると思う。その意味は、「 観自在菩薩が、深い瞑想状態になっている時に、この世の一切が空であると観照し、一切の苦しみ災いから解放された。」という意味だと思う。この文をこちらのサイトでは、「観音菩薩が、深遠な知恵を完成するための実践をされている時、人間の心身を構成している五つの要素がいずれも本質的なものではないと見極めて、すべての苦しみを取り除かれたのである。」と訳している。

 まず菩薩ってなんだったけかなと思い、wikipediaで調べてみると、サンスクリット語のBodhi sattvaの音写といい、悟りを求める衆生の意味だという。そういえば、菩提薩埵 は般若心経の中にも出てくる。

 次に気になるのが、般若派羅密多という言葉だ。この言葉は、般若心経の中に繰りかえし繰りかえし出てくるので、かなり重要な言葉だと思う。

 再びwikipediaで調べてみると、般若は、サンスクリット語でprajnaで智慧を意味し、波羅蜜多 は同じPāramitā で迷いの世界から悟りの世界へ至ること、および、そのために菩薩が行う修行のことと書いてある。至彼岸とも訳すと。この言葉もサンスクリット語の音写なので、それだけ言葉の響が意味があり一種の真言、マントラとしての意味があるというだろう。

 お経というのは、唱えることに最大の意味があるので、こうして知的に理解してゆくのは、面白いが心穏やかであるとも言えないので、今日はこのぐらいにしておきましょう。

 

 

生と死を繋ぐ音の絆


昨日の気功教室で、般若心経の唱える時は、「MU~という音を身体に響かせてその音に言葉を乗せるといいですよ。」と伝えた。その音の響きが、エネルギーとしての存在になった故人に響きますからと。「MU~という響きは、シーンという静寂の音の元響いている音で、般若心経に出てくる「無」は、何もないということではなくて、「MU~」という基本の音が響いている元の世界のことを表しているのだと思う。」とも伝えた。

一番、元の音の世界、純粋な意識の世界へ帰ることが大切なのだと思う。その基本の音を身体に響かせる時に、生と死を繋ぐ音の絆が生まれる。それ故に人は、葬儀でお経を唱えるのだろう。葬儀場にこだます音の響が、死者の魂と弔い、生と死と繋ぐ架け橋となっている。そのせいだろうか、葬儀でお経の響を聞いているといつも気持ちが良くなってしまうのである。

話は変わるが、昨日往診に行った老人ホームで、一人の認知症のおじいちゃんが「戦争で、お国の為に戦ったのに、なぜこんな風に監禁されなくちゃならないのか。私は、今日自害します。戦争で死ななかったのにこんな所で死ぬなんて、私は何も悪いことした訳ではないのに。」と言って、周りの人を困らせていた。毎日、こうした老人とやりとりしている老人施設のスタッフの人たちも大変だなと思うと共に、もっと正しい死生観さえあれば、こうした悲劇を毎日繰り返す必要もないのかもしれないと思った。

自分という存在が、単なる肉体ではなく、音の響、波動であるということがわかれば、こうして肉体に執着して、かえって苦しみ悩むという社会は、もっと希望に満ち生き生きとした社会に変わるのかもしれない。





般若心経を読むということは要するに振動数を上げること

般若心経を1300回を唱え終わった。最近、思うのだが、「般若心経を唱えるということは、要するに振動数をあげることなのだと思う。」 氷が水になり水が水蒸気になるように般若心経を唱えて振動数を上げることで、自分たちの様態が変化してゆく。肉体という物質的な段階から、もっと振動数の高い存在へと変化して行くのだと思う。

疲れると身体が重くなるというのは、それだけ私たちの身体の振動数が落ちてしまっている状態だ。そこで気功指圧で気を入れ行くと、患者さんの身体の細胞の振動数が上がりだんだんと身体が温まり元気になってゆく。

先週は、腰がだるく痛いという患者さんが、立て続けに来た。おそらく気温が10度以上急に冷えて、内臓が冷え大腰筋などの腰の内側の筋肉が硬くなり腰痛が起きたのだろう。そこで気功指圧をしたのだが、なんとその後こちらの腰が重くだるくなり軽く痛むようになった。温泉に入り温めて、般若心経を読むことで振動数を上げたら、再び身体の中心から熱くなり元気が復活した。声とは、音でありまさに波動だと言える。お経を声を出して読むことで、身体の振動数を上げることが、元気になるにも次の存在の段階へと進むためにも大切なことだと思う。

首と腰の痛みがたった2回で完全に消え去る

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一昨日の夜7時ぐらいに突然、初めての患者さんが訪ねてきた。檀那さんは、首と腰が痛くて車から降りて来るのも辛いので、奥さんが治療してもらいたいと尋ねてきた。ちょうど7時から、別の患者さんが来るのを待っていた所だったので、その後の8時過ぎならなんとかなりますと答えた。するとその変で夕飯を食べてきて、また来ますということで、その場は取りあえず引き上げてもらった。

8時が過ぎ、痛みで首を垂れた状態の檀那さんが、治療室にやってきた。なんとか治療台に横になってもらって、針の治療を始めた。初めは腰に針を打って、そこに気を送り、痛みを腰から足の方に誘導した。針に対する反応が敏感だったので、これはもしかすると大いに効くかもしれないと思っていると、気を流しているうちに「背中の痛みがどんどん取れて楽になって来ました。」と患者さんが言った。そして、痛い方腕をぐるぐると回し始めた。気に対する感受性が豊かな人なので、気を流した時の効果も抜群だった。次に背中と肩の治療をして、起き上がってベッドに座ってもらい反対側の背中を治療して終わった。

ベッドから立ち上がって患者さんの首は、まっすぐになり元通りとなり「やっと人間に帰った感じです。」と言って笑った。「こんなにすぐに楽になるとは思いませんでした。」言ったので、「気に対する感受性が豊かなんですよ。そうすると治療の効果が高いんです。」と答えた。

その時は、明日の仕事は休みにしましたと言って帰った患者さんだったが、翌日、午前中に仕事を済ませて来ましたと言ってもう一度見えた。もうほとんど治っていたのだが、まだ多少残っていた腰と肩甲骨の脇の違和感を治療で取り除き終了した。

人によって気に対する感受性は、様々なので、必ずしもすべての患者さんが同じように治るとは言えないが、気の流れやすい人にはこのように驚くほど効くことがなる。

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般若心経11111回を通過

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般若心経を11111回以上唱えた。実際には、11100周数珠を周り、さらに11回を唱え越えた。なぜなら数珠は、108あるので。唱えるといろいろな音が身体に響き、それを確かめながら唱えている。声の中にもいろいろな音があって面白い。

 そして、唱え続けることでしだいに回転する地球ごまの軸のように身体の中心に気の芯ができてくるのがわかる。この軸は、何を意味しているのかまだよくわからないが、レンズが光を集めるように気を集めることができるとしたら、この軸から放たれて気のパワーが増して、治療する力が高まる可能性もある。

この間、喫茶店に行って、般若心経を唱えると身体が熱くなるという話をしたら、「それじゃ更年期障害といっしょですね。」と言われて思わず苦笑いした。確かに熱くなるのは、いっしょだが、気功や般若心経を唱えることで、身体の中心からわき上がる熱と、ホルモンの異常で火照る熱とでは、その意味がまったく違っている。それは、同じように光るからと言って、蛍の光と太陽の光がまったく違っているのと同じだ。

この熱は、実際に治療を受けて体験してもらうとよくわかるのだが。まあ、もちろん喫茶店の人も冗談として言ったのだろうが。

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